鬼畜も泣かん 残兵惨虐の跡 追討の重松支隊報告 1931/10/7

【奉天六日発電通】鉄嶺開原東方各地で鮮人虐殺をなしつつあった北大営敗残兵討伐のため三十日夕刻長春より出動した重松支隊は約百里に亘る行動をなして六日奉天に帰還し重松支隊長は同日午後林軍司令官に状況を報告したが右の報告によって鬼畜も三舎を避ける支那官兵な鮮人虐殺の一端が明瞭にされたが実に尼港事件をも凌ぐものがある。一週間に亘り燃えるが如き同胞愛から一日二十里以上の強行軍で人煙稀なる満洲の荒野に活躍した支隊の将卒は紅顔の初年兵に至るまで髭蓬々として真っ黒な顔にひかる両眼には今なお義憤の涙が輝いている。重松支隊長の報告要旨は左の如くである。

支隊は一日午前四時開原を出発正午近く貂皮屯に到着して露営中夕刻約五十名の乗馬の敵が突然我が前哨戦に近づき射撃を始めたのでこれに応戦し交戦後敵は死体五を遺棄して退却した。更に午後九時頃兵力不明の大部隊が襲来したが間もなく支隊の撃退する処となった。二日早朝支隊は東進を起したが途々避難してくる鮮人に状況を聞くと孤家子に多数の支那兵が来て狼藉を働いている。家に帰ると危ないから密かに食物を家から運び山や畑の中に隠れて夜を明かしている。しかし年寄りや女子供は逃げ遅れ大分殺されて居るといい、又本家⚫︎付近に居たという避難者は李家台には三十日夜まで一千近い敗残兵が居て暴行を恣(ほしいまま)にして居たという。行く行く斯様な情報を聞きながら午後三時李家台に到着した。

三日早朝李家台を出発し昼頃孤家子に到着しここにて初めて惨憺たる鮮人支那人の状況を目撃した。ここでは二十二三日頃から虐殺が始まったが彼等が手を下す前に支那人地主が鮮人農夫の妻子を自分の家で保護すると称して沢山の鮮人を家にかくまい敗残兵にこれを密告して敗残兵は子女を虐殺した後田畑から帰って来た男をも引縊り惨虐の限りを尽くした。

現に支隊が孤家子に到着した時引縊られたままの鮮人が二十数名発見された。写真に撮った六名の鮮人の死体は三個が女で二個が男、一個が子供で母親に負われたまま母子諸共殺害されていた。これと別に七個の死体が一組になって発見されたが何れも押切りで手首を落とされたもの金挺で頭蓋骨を半分割りとられたもの両足を引っ張って生きたまま股から引き裂かれたもの等何れも考えられないような殺し方をしてあった。孤家子で発見した死体は二十五個であったが殺され残った鮮人の談によればここだけでも殺害されたもの百名は下るまいという事であった。上肥地でも八個の死体を発見した。帰還の途八果樹で邦人巡査一名(が)残り多数の鮮人を保護して死ぬまで頑張ると決死の覚悟をしているのには全く敬服した。この巡査の話しでは付近一帯在住内鮮人三千の内四、五百は虐殺をされたろうのとのことであった。

敗残兵の暴挙は鮮人に限らず同胞たる支那人にも及び敗残兵の通った後では十一、二歳から十四、五歳の子女で強姦されないものは一人もないといって歯ぎしりして悔しがって居る。支那人で殺されたものも相当あった模様である。支那兵の悪宣伝も手伝って同方面な支那人一般が日本軍も暴行するものと思っていたらしいが、予想に反して非常に親切にして呉れたのみか却って宿舎料といって金を呉れたのを非常に不思議がっていたようである。

⚫︎は判読不明文字

※讀賣新聞昭和六年十月七日朝刊

コメント

タイトルとURLをコピーしました