妊娠中の妻の惨殺の様を涙にくれ夫君語る
【奉天特派員五日発】開原から海龍にわたる一帯は北大営を追われた王以哲軍敗残兵の悪鬼の如き振舞いに数千名の朝鮮農民は略奪、放火大暴行を受け数百名の虐殺をさえ見るに至ったがその惨害は日本人にも及び西安(※満洲の吉林省西安県。陝西省西安ではない)居住の邦人婦人も殺害されたことが判明した。今その当時の事情を聞くに、九月二十六日午後十時頃敗残兵約五百名、翌二十七日午前三時頃約七百名が大挙西安に襲い来ったがこれ等敗残兵の大半は武器を所持しその他はそれぞれこん棒を携えて二十七日未明より大略奪を開始した。急を知った在住邦人十余名は寝衣のまま支那公安局に逃れたが逃げ遅れた雑貨商徳島県人逢坂里三太(三四)方は午前六時半頃敗残兵に取り囲まれ乱入した兵士のため妻女はな(三五)はその銃弾のため胸部に貫通銃創を負い、同十時遂に絶命した。妻女を失って逢坂氏外邦人十余人はいずれも五日間公安局に閉じ込められた後脱出を計り、掏鹿日本領事館分館の要求によって派遣された二十名の支那騎兵と保安隊三十名に護衛され一日西安を出発し掏鹿、開原を経て四日夜奉天に避難し来り、前記逢坂氏は五日朝奉天総領事館を訪問してその一切を訴えたが西安に放置してある妻女の死骸は鉄嶺領事館から掏鹿の支那官憲と交渉の上近く奉天に送り届けられることとなった。逢坂氏を避難先に訪えば氏は涙ながらに当時の事情を語る。
「西安炭鉱の邦人十三名は敗残兵の危険を避けて二十三日安全地帯に避難したが私達は最初公安局に保護を求めた時、武器を持たぬ公武学堂の学生二、三百名が逃げてくるだけだから避難するには及ばぬとの事だったので踏み止まったばかりに飛んだ災難にあってしまいました。二十七日夜明け数百名の敗残兵の襲撃を知り逃げ出そうとする間に既に家の裏表で銃声が聞こえたと思うと同時に表口の戸がたたき破られるような音がしたので寝ている七歳の男の子と四歳の女の子を起こし、妻と私の四人は矢庭に押入の中に隠れ込むや否や多数の兵がどやどやと踏込み日本人は居ないか探し始めた。押入のふすまに手がかかったので私は子供もいるし妻は八ヶ月の妊娠中だから命だけは助けてくれと頼んだが聞き容れず今はこれまでと覚悟を極め妻と二人で立上った途端妻は前に立ちふさがった兵士の銃弾の一撃に打倒されてしまった。その後兵士は私と子供二人をふん縛って金品を強奪して逃げ去った。私の家だけでなく日本人と見たら片端から跡方もなく強奪し西安にある五軒の邦人家庭は全滅の形です」
※東京朝日新聞昭和六年十月七日朝刊

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